毎日が春休み

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人の記憶は間違っていることもあるけれど、すごく重要だから積極的に残すべきよねという話

オーラルヒストリーってすごく大事よね

ここ10年ぐらいオーラルヒストリーという言葉をきくことが多くなった。

元々、オーラルヒストリーは、民俗学でよく用いられている手法だったよう。宮本常一の名著「忘れられた日本人」のように、市井の人々の回想をもとに過去の生活を明らかにするというもの。

オーラルヒストリーに「ヒストリー」と名がついているのは、歴史学の人々がこの民俗学の手法を積極的に用い出したから。

現代日本史を専攻していた人によると、歴史学では書物や物的証拠などを元に考察を重ねる学問で、人の記憶や回想とというのはそれほど重視されてこなかったとのこと。

だけど、当然のことながら、書籍に残されていない事実も多くある。当事者が残すまでもないと考えていたとか、あるいは不都合であるためあえて残さなかったとか、そういうの。

ある出来事について、書籍や物的証拠だけでなく人々の記憶や回想も用いるて多角的にみる方が、事実に近づくんじゃないかというのが最近の傾向として出て来たということのよう。

 

私は歴史学徒ではなくて、土木計画学を専攻としている人間なのだけど、このオーラルヒストリーをまちづくりとかにも積極的に使っていくべきよねと考えている。

まちづくりっていうのは、施設や環境といったものと人々とのコミュニケーションによって行われるものだと思っている。

そのコミュニケーションにおいて、人々の記憶は重要なファクターのはずなんだけれども、ちゃんとした形で残してきていないのはよくないんじゃない?と思う。

 

第二室戸台風のオーラルヒストリー

 昨年度、研究活動の一環で、1961年に起こった第二室戸台風について何十人かに話を聞いていた。

 この災害記憶には、いくつかの傾向が見られた。

1.同じ地域でも非被災者は災害そのものの記憶すらあやふや。  

 私が調べた西淀川区は、第二室戸台風により堤防が決壊し、10日以上にわたって浸水しているという大きな被害にあっていた。

 こんなに大きな災害だったのに、浸水区域から数十メートルしか離れていない地域に住んでいた人が西淀川区が浸水したかどうかすらも覚えていなかった。他にも「戦災の記憶が強すぎて、台風のことはそれほど覚えていない」と仰る方もいた。  

 記憶というのは、ひどく個人的なものなので、その人が感じた切迫感に応じて作られるもののよう。

2.被災者は行政はあんまり何もしてくれなかったと感じている。  

 行政の記録をみると、行政もいろいろと対策をしているのよね。災害本部をつくって、避難勧告や避難指示を出し、備蓄のチェックをして、と、災害が発生する前からいろんな動きをしている。災害発生後も避難物資を届けたり、排水のためポンプを動かしたり、義援金の分配とかいろいろな活動が記録に残っている。  

 にも関わらず、ほとんどの人が行政がしていたことは非常に少なく、不足していたと感じているのよね。義援金について「もらった」と言った人が一人もいなかったのも不思議だった(ひょっとしたら一人当たりの金額が少なかったから町内会費とかにいれられたのか? ここらへん事実関係がよくわからなかった)。  

 行政サービスというのは、普通にされていて当たり前なので、少しでも不足するとすごく不満に感じるということのよう。

正しくない象徴的な記憶が共有されている  

 複数の人から「第二室戸台風の時には、沓脱先生がボートで往診にまわっていた」という話をきいた。どの人もその話をする時に少し誇らしげに語ってくれた。けれども、沓先生は第二室戸台風が起こった1961年時点では大阪市議会議員で、往診にまわっているはずがない。沓先生がボートで往診にまわっていたのはジェーン台風による被災時で、第二室戸台風の時には西淀病院がチームを作って往診にまわっていた。ジェーン台風に遭遇していない人まで、沓先生の逸話を覚えていた。  

 「浸水している中で若い女医さんが患者のためにボートに載って往診にまわる」というのは、とても鮮烈な逸話なんだと思う。どこかでその写真や逸話をみたら、強い印象を受けることだろう。その逸話がどの災害で起こったことかというのは些末なことになってしまう。特に、被災者は行政に不満を感じていたため、民間の突出した人の活躍を誇りに思っていたのだろう。

 

 以上の3つの事項は事実としては正しくないことなんけど、複数の人に傾向としてみられたというのは、事実以上の意味があることなんじゃないかと思う。  

 1つ目の「同じ地域でも非被災者は災害そのものの記憶すらあやふや」ということについて。大きな被害が生じた災害がすぐ側であったにも関わらず、災害についての記憶がほとんどない人がいるというのは思ってもみなかった。災害意識を啓発していく上で重要な当事者意識を持ち続けるということがいかに難しいかがわかる。  

 2つ目の行政への不信感と3つめの魅力的なヒーローに関する過誤記憶は、相互に関係し合っているもののように思う。災害に関して行政に対策を求めるというのはついつい落としどころにしてしまうところなんだけど、多分、どれだけやっても足りないんだ。そして、民間の魅力的な人の活躍というのは、その活動による直接的な効果よりもその逸話自体が人々の心の支えになるということなんじゃないか。行政の活動も民間の活動も、どちらも災害時には重要なことであるのだから、多くを求めすぎずにきちんと評価していくことが大事だと思うんだけど、人の記憶に残す影響というのはどうも違う。


*沓脱タケ子先生。西淀川区の姫島委員の医師から大阪市議会議員に転身。1973年から参議院議員

参考資料  今回の調査では本当に図書館や公文書館にお世話になった。アーカイブってすごく重要だね。

大阪市土木局:第2室戸台風概要、1961年

大阪市清掃局:第2室戸台風災害応急清掃作業記録、1961年

大阪府第2室戸台風誌、1961年(功労者の表彰一覧などもあって興味深かった)

毎日新聞朝日新聞、読売新聞、産経新聞、1961年9月16日〜30日(写真がよく撮れていたのだけれども、マイクロフィルムからコピーを撮るとどれも真っ黒になってしまって残念だった>< 産経新聞被災者に寄り添った報道をしていて、少し意外であった)

「大阪の河川を愛する会」講演会 『河川行政を回想する』金盛 弥、2005年(堤防の決壊についてちょっとすごいことが書いてあって驚いた。西淀川区第二室戸台風の被害は、一民間企業の不作為によるものなのよね。それがきちんと追求されていないというのが何とも)

学生自治会:「第二室戸台風救援対策活動から」『社会問題研究 11巻4号』大阪社会事業短期大学社会問題研究会、p.83-90、1962年(学生自治会被災地の西淀川区大和田で仮設保育所をつくっている。すごいぞ)

・淀協のあゆみ 地域の医療運動史、2014年(ジェーン台風時の沓脱医師の活躍や第二室戸台風時のドラム缶ボートでの救護活動についてなどが記録されていた)