毎日が春休み

明日から本気だすからねえねえ ねむねむぐっすりしてからの ほうがいい

子どもに親ができることってサポートだけ

上の子がもうすぐ小学校を卒業する。今は中学受験のためにせっせとがんばっている。

上の子の歴史趣味やオタク気質、中学受験を含め、もう彼女のために私が何かを選択するということはほとんどないんだろうなという気がしている。私が選んだものではもう彼女は納得できない。彼女自身が納得して選んだものじゃなければ、彼女は後悔し続けるだろうし。親から手が離れるの意外と早かった。

思春期の子どもに親ができることって、サポートしかないんだろう。

でも、親の生きかたや言葉には大きく影響を受け続ける。その親の言葉が子どもにとって呪いにならなければいいなあと思いつつ、呪いにならない言葉なんてあるんだろうかとも思う。自由に生きてほしいと思いつつも。私はいろんな親からの呪いを内面化していたたので(お前は勉強しかできない。成績がいいだけで頭はよくない。お前は結婚が遅そうみたいなあれこれ)、かなりひねた子どもだったし、思春期の頃は生きづらかった。娘たちにはそういう呪いを絶対言いたくないと思っていたが、代わりの何かは口にしてる。

とりあえず、今は上の子が受験で本領を発揮できるように、ご飯作ったり、洗濯したり、受験申し込みの手続きをしたり、神頼みをしたりしている。がんばってくれ。どんな結果になっても、子どもが自分でそれを納得して、乗り越えることができればそれでいい。

うつ病を治すには光る目覚まし時計が効果的!

 重度のうつ病と診断されてから数年。まだ寛解にはいたっていないものの、かかりつけのお医者さまにも「今年いっぱいぐらいでお薬をやめましょう」と言われたので、ほぼ治ったと言ってもいいと思う。

 ここにいたるまでには、いろんな試行錯誤を重ねてきた。うつ病は考え方の病なので、意識や態度を変えようと思ってもなかなかできない。「気のせい」「気持ちの問題でしょ」とよく言われたのだが、その気持ちが病気なのだから自分では治せない。たとえば、朝の日光を浴びるのはうつ病の治療に効果的だとあちこちで書かれているけれど、朝起きようと思って起きれないのがうつ病患者だったりする。気の持ち方や意識に頼ろうとするのではなく、物やサービスを購入してまわりの環境をどうにかこうにか変えて、少しでも行動を変え、それによって意識を変えようという戦略が、うつ病患者にとって有効なのではないかと思う。

 ということで、うつ病の回復に役立ったと思われる物やサービスをここでまとめておこうと思う。

光る目覚まし時計

 多分、一番役に立ったのはこれだと思う。うつ病になってすぐに買うべきだったと思う。

 うつ病の治療には朝の光がかなり効果的なのだけれど、私の家は朝になっても部屋に光が差し込まない。特に冬季は起きたい時間になっても暗かったりする。

 光る目覚まし時計は、夫が購入してくれた。起床時間の20〜40分前から徐々に明るくなり、起床時間には部屋全体が明るくなる。これによって、朝の目覚めがかなり改善された。値段は少し高価だけれども、その値段を上回る効果がある。

 

夕食食材宅配サービス

 夕食食材宅配サービスは、少し回復してから利用し始めた。

 うつ病になって一番困ったことは、子どもたちに夕ご飯をつくるのがとても辛いということだった。元々私は週末に作り置きをして、それを平日に少し加工して夕ご飯に出していたので、うつ病になって作り置きが全くできなくなってからは夕ご飯にはとても困った。外食するのもしんどくてできない、お弁当やお惣菜を買って来るにしても毎日は飽きてしまう。生協で個配を頼んでいたけれど、食材を見ても混乱して献立を考えることができなくて、食材がダメになってしまうこともあった。

 夕食食材宅配サービスは、少し割高ではあるけれど、栄養士さんが考えたバランスのとれたメニューの食材が毎日届く。サービスによっては、切り刻んだ食材が届き、火を通すだけで食べれるものもある。今はあまり使っていないが、「野菜を取りたかったら汁物に野菜を投入」「もやしは超便利」などいくつかの気づきがあり、使ってよかったと思っている。

www.yoshikei-dvlp.co.jp

時間がないので、あとは箇条書き

  • ルンバ(家の中に埃があると抑鬱状態が悪化する。それにルンバは健気でかわいい)
  • 音波式電動歯ブラシうつ病になると歯磨きも億劫になる。口の中の状態が悪いと身体や気持ちも悪化する)
  • 炊飯器(それまでうちでは鍋でご飯を炊いていたので、炊飯器の便利さが目から鱗だった)
  • フライヤー(温度管理をしなくてすむ。芋をとりあえず切って揚げておくと子ども喜ぶ)
  • ヨガ教室(あんまり行けなかったけれど、行くことができると、すごくすっきりした。また通いたい)
  • 英会話教室(少し回復してから。フリートーク中心ではなくて、与えられた文章を英作文するところだったので、気が楽だった。体調によっていけない時もあるので、振替授業があるのも助かった)

 うつ病になると、お金の心配をやたらとするようになる。ナインティナイン岡村隆史うつ病で急病する直前に「お金がない」と不安がっていたらしい。私もうつ病がひどい時は、お金や将来のことが心配で心配で、お金を使えなかった。仕事をセーブしないといけないから、収入も減るしね。

 でも、うつ病を長引かせて辛い人生を送るよりも、一時的にお金を使ってでも早めに治したほうがいいに決まっている。今となっては、私は、もっと早くからお金を出して、うつ病が治るための環境改善をすればよかったと思っている(うつ病にならないのが一番だけど)。

 うつ病になった当事者はなかなかお金を使うことができないので、身近にうつ病患者がいる人は、その人の環境がよくなるような物・サービスを購入してあげてください。

家族にまつわる物語九選

 先日、十数回目の私たち夫婦の結婚記念日が過ぎ去った。

 結婚して新しい家族を作るというのはとても不思議な営みだ。結婚は自分と他人の人生の責任を分け合うことで、よくよく考えると恐ろしいことだと思う。不確定要素が多すぎて、きちんと損得勘定していると結婚に踏み出すことはできないだろう。

cakes.mu

 上記の記事で、ジェーン・スーさんが「『うっかり』契約を結んでしまって、ひとまずその契約状態の中で最高の生活、最高のパフォーマンスをしようと努力するし、できなきゃ離婚になる」と言っておられるが、まさしくそのとおりのように思う。私が結婚できたのは、私も夫もうっかりしていたからだろうな。

 「家族というのは祝福であり呪い」。江國香織さんがこんな感じのことをどこかで書いていた(「流しの下の骨」のあとがきだったような気がするがエッセイだったかもしれない)。家族は最小の社会単位であるが、子どもは自分の所属する家族を自分で選ぶことができない。子どもはその家族から多くの祝福と呪いを受けて、親とどこか似た大人になる。そして、大人になった多くの子どもは、自分の家族と似ている家族を作ってしまう。

 私の実家にも、人に言えるものから言えないものまで様々な事情がある。そういう様々な事情が複雑に絡み合って、今の私ができている。私は私の家族の嫌な部分も良い部分も全部引き継いだ上で、新しく家族を作った。娘たちも大人になったら、私たちの家族とどこか似た家族をつくるのかもしれない。

 私は昔から家族にまつわる物語が大好きだ。なぜなら、通常は他所の家族の事情を詮索するのはお行儀の悪いこととされている。さらに、他所の家族の事情は、厚いヴェールに包まれていて詳細を見ることができない。物語には仔細に他人の家が描写されており、因果応報や理不尽さ、愛憎も尊さも祝福も呪いも見ることができる。

 ということで、私のおすすめの家族にまつわる物語を紹介します。

 

百年の孤独

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

 

蜃気楼の村マコンドの開拓者一族ブエンディア家の100年の物語。家族の物語であると同時に、架空の村マコンドの開拓・隆盛・滅亡の物語でもある。同じ名前の人間ばかりが出てきてとても混乱させられるが(ブエンディア家の男たちはアルカディオかアルリャレのどちらか)、同じ名前を持つということ自体が幸運も不幸もすべてを引き継がせるという意味合いを持っているようにも思う。ブエンディア家のビッグマザーともいえるウルスラがとても魅力的で、ろくでなしの男たちにも愛を注ぎ、いつまでも長生きし、家族を見守り続ける。どこを切り取っても面白いが、物語の畳み方にも圧倒される。

カラマーゾフの兄弟

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 2013年にドラマ化されていたようだ(私は残念ながら未見)。大審問官の章も魅力的だが、汚らわしい父の血を引き継いでしまったが故に、運命に翻弄される兄弟たちの人間ドラマとしてもとても面白い。無垢なる存在の末弟アリョーシャが主人公となる続編が書かれる予定だったのにドフトエフスキーの逝去により書かれることはなかった。それ、めっちゃ読みたかったよ。

抱擁、あるいはライスには塩を 

抱擁、あるいはライスには塩を

抱擁、あるいはライスには塩を

 

三世代にわたる柳島家の物語。章ごとに時代、語り手が異なり、この風変わりな家族を多角的に描写している。家族であっても、ある人物には見えている真実が他の家族には隠されて見えていない。「家族に隠し事なんて水くさい」という考えをする人もいるかもしれないが、家族だからこそ隠し事をする。家族のもつ芳醇で複雑な闇を垣間見ることができる。

「抱擁、あるいはライスには塩を」というタイトルはすばらしい。こんなに奇妙なタイトルなのにこの家族の物語を表すのにこれ以上に最適なタイトルはない。江國香織さんは「きらきらひかる 」「流しのしたの骨 」「間宮兄弟」など、多様な家族の物語を書いていてどれもとても面白いのだけれども、世代を超えた家族の継承の物語ということでこれを選んだ。

楡家の人びと

楡家の人びと (1964年)

楡家の人びと (1964年)

 

北杜夫が自身の家族をモデルにして書いた精神科医一家の物語。高校生の時以来、再読できていないので、まともに紹介できない。メロドラマのようでとても面白かったこと、赤いサイダーがやたらと甘そうだったことが印象に残っている。解説に「北杜夫トーマス・マンの正しい継承者」と書かれていたが、トーマス・マンは残念ながら未読。

西の魔女が死んだ

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

西の魔女が死んだ (新潮文庫)

 

不登校の中学生とイギリス人の祖母の短い生活を描いた物語。「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ」という祖母の言葉がすごく好きだ。私が中学生の頃にこの本を読むことができていたら、間違いなく私のバイブルになっていたと思う。梨木香歩の家族にまつわる物語としては、「沼地のある森を抜けて」もおすすめ。

アンナ・カレーニナ

 

アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

アンナ・カレーニナ〈上〉 (岩波文庫)

 

「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である」。あまりにも有名なこの冒頭に、家族にまるわる物語のエッセンスがつまっている。三種類の家族のあり方が描かれるのだが、一番地道で安定しているリョーヴィン家はトルストイ本人の家庭観を表しているようだ。アンナは不倫という罪を犯してしまう存在だが、罪人として罰せられるのではなくとても魅力的に描かれていた。

嵐が丘

嵐が丘(上) (岩波文庫)

嵐が丘(上) (岩波文庫)

 

アーンショウ家とリントン家の三代にわたって繰り広げられる因縁の物語。時系列が入り乱れたり、主要な語り手がしばしば正しくない情報を述べたりするので、物語がとても複雑になり、ミステリーのような面白さがあった。ケイト・ブッシュの「嵐が丘」はこの物語の世界観をうまく表現している名曲だと思う。

ダイエット

ダイエット (あすかコミックス)

ダイエット (あすかコミックス)

 

機能不全家族に育った少女が過食と拒食を繰り返す話。とても痛々しいエピソードばかりなのに、静かに淡々と描かれている。 最後に擬似家族を得ることで、自己承認に向けた解決の可能性を示唆していて、大島弓子らしい繊細で美しく優しい物語。

輪るピングドラム

あらすじの説明がすごく難しい。キーワードは、親からの継承、疑似家族、運命を分かち合うといったところかな。星野リリィ原案のキャラデザインも素晴らしいし、舞台装置も音楽も主題歌もセンスがよくて毎週見るのがとても楽しみだった。

 


今は発言小町などで他所の家族の覗き見は容易になっている感があるけれど、物語ほどの濃厚な家族の物語はほとんどないし、架空の物語でしか描けない普遍的な真実があるように思う。

AKBとまどまぎの相違点についてそのうち書く

少し前からAKBで少女たちの努力を消費するファンたちと、まどマギ見ながら少女たちの絶望と希望おいしいですと思っているアニメファンたちの気持ちはすごく似ているよなあと思っている。

物語を消費するというのはとても充実感があることなんだ。

どちらがタチが悪いのかというと、AKBの方が生身の人間な分だけタチが悪いよなあと思っている。

ちょっと今は時間がないので、そのうちこのことについては長く書こうかこうかと思う。ていうか、ほんまに自分、こんなことしている場合ちゃう。

難しい問題は小さく分割して考えようと偉い人が言っていた

 上の子は算数に苦手意識があるようだ。

 学校のテストでそれほど悪い点を取ってこないので、さっぱりわからないというわけではないようなのだが、幾何の問題は特に苦手なようだ。

 時々、学校や塾の宿題をしながら「何これー、全然わかんないっ!」と騒いでいたりする。

 私は、小学校の頃の算数の幾何の問題はパズルみたいで楽しかったという記憶しかない。上手な補助線をひくことができればするすると問題を解くことができて、それはとても心地よかった。子供の幾何の問題を見ていると、今でもわくわくして解きたくなる。子供と私とは、得意分野が微妙に違う。

 「お母さんは、高校までは算数や数学を分からないと思ったことがなかったんだよね。でも、大学の数学で『これがさっぱりわからないということか』と衝撃を受けたよ」と、娘に話したところ

「ということは、お母さんと私はつまづくタイミングの違いだけで、二人とも算数が苦手ってことだね」

とまとめられてしまった。

 うん。まあね。まとめすぎのような気もするが、大枠では間違っていない。私は算数ができると思い込んでいただけで、それほど数学の能力には秀でていなかったということが今ならわかるから。

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 上の子が幾何の問題につまづいていたので、補助線を引きながら教えてあげたら

「なぜ線をひくの?」 

と聞いてきた。

 思えば、私は子供の頃、なぜ補助線をひくのか?という疑問を大人に投げかけたことがない。この手の質問を大人に投げかけると「黙っていうとおりにしろ」的なことを言われて失望したことがあったので、疑問を外に出さないようになっていたのだ。

 きっとこういう疑問はとても大事で、娘の知的好奇心を刺激するために私は娘の疑問にきちんと答えなければならない。

 そう気負った私は、頭の中の知識をフル動員させて

 「昔デカルトという偉い人が方法序説という本で、難しい問題は小さく分割して考えなさいということを書いていたんだよ。だからこの手の図形の問題も、小さく分けるために補助線を引くんだよ」

と説明しだしたのだが、娘には「またお母さんが変なこと言い出した」と呆れられてしまった。小学生に物事を教えるのは難しい><

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方法序説」には思索の方法として次のことが述べられている。

  1. 私が真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないこと。注意深く即断と偏見を避けること。
  2. 難問を、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること
  3. 思考を順序に従って導くこと。単純で認識しやすいものからはじめて、階段を昇るようにして複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間さえも順序を想定して進むこと
  4. すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。 

 私はデカルト方法序説を読んだ時、ああ、数学で習ったことが書いてあると感動したんだった。それまで哲学と数学が結びついていることを知らなかった。

  子供の頃の私は、大人が行動の理由をきちんと教えてくれなかったと感じていた。「とりあえずやってみろ」ばかりで、汎用性の高い方法を教えてくれないと感じていた。

 でも、大人になった私は、行動の理由を知ったり汎用性の高い方法を身につけるには、経験を重ねることや習慣化することが有効なんだと気付き始めたりもしている。私の説明を嫌がった上の娘も、そのうち私の本棚から方法序説を抜き取って読むかもしれないし。知りたくなったら自分でなんとかするだろう。知的好奇心は、親の説明が下手というぐらいでは、潰れたりしないものだしね。

自問自答のぐるぐるぐるぐる

今週はいろいろと仕事が片付いた。なんか疲れたな。

私の今の立場は今年度で終了する。そろそろ次の仕事について考えなければならない時期だ。

思い返せば非正規の立場ながらも、研究職を10年以上わたり歩いてきたことになる。自分の能力やら生い立ちを考えると運が良かったともいえるが、この先が続かなければあんまり意味がなかったのかもしれない。

私の今の能力や状況で、今後、非常勤職以外のアカデミックポストを得るのは大変困難だと思う。病気をしなかったらもうちょっとましな状況になっていたんじゃないかと残念に思ったりもする。そして、そろそろ研究者としての自分をおしまいにしてしまおうかなあと思ったりもする。

でも、そうすると「諦めたらそこで終了です」という悪魔の囁きが心の中からわき起こってくる。研究というのはどんな立場でも続けてもいいものだよ、と。苦労して学位をとって今までのささやかながらの積み重ねがあるんだから、細々とでも研究を続けていこうよ、と。

その一方で、「小欲知足」という言葉も浮かぶ。欲を小さくすることがあなたの人生をもっと楽にするよ、病気も悪化せずにすむよ、と。私の能力はそれほど高くもないのだから、がんばったところで得られる成果はそれほど多くない。今自分がおかれた状況に満足した方が幸せよ。自分の能力以上のことをしたらダメだよと。

そうこうしていると、それらの言葉を打ち消そうとする私の中のえらい人が出て来て「小欲を捨て、大欲に立ちなさい」とのありがたい言葉を出してきたりもする。安定した職を得たいとか収入をきちんと得たいとかそういう小欲は捨てて、社会に役立つことをしなさいと。

いや、でも、私、そんなえらい人違うし、社会に役立つとかおこがましいだろ、というか、社会に役立つと思って始められた事柄で地獄が始まるなんてよくあることだ。と、ペシミストの私が言い募ってくる。

仕事や研究の継続は、私にとってはかなり切実な悩みではあるものの、悩めるのはまだ余裕があるからだと思う。

今日も明日も自問自答は続くよ...。

お地蔵様に挨拶

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 3歳児と歩くと時間がかかる。

 3歳時は自宅近くの狛犬の前で必ず「コマさんとコマジロー。よろずら!」と喜ぶ。瓦屋さんの前に置いてある鬼瓦にも「鬼時間だー」と喜ぶ。そして「鬼に捕まらないように早く帰ろう」と走り出す。3歳児は、妖怪ウォッチの世界と現実世界の境界線を曖昧にして楽しんでいる模様。

 3歳児はお地蔵さんも好きだ。お地蔵さんを見かけると、手を合わせてなにやらお願いごとをする。よくよく聞くと「こんにちは。ごちそうさま」と言っている。それに私がウケたのがよくなかったたようで、繰り返し言うようになってしまった。奈良はお地蔵さんが多く、保育園から自宅までの帰り道に6カ所もお地蔵さんがある*1

 それだけでなく、3歳児の道中はすべてのマンホールはジャンプで飛び越え、花壇などの少し高い場所を歩きたがる。そして時折、物陰に隠れてかくれんぼを始める。歩いているだけなのに、とても忙しげだ。下の子と歩くと、大人だけで歩く場合の三倍ぐらい時間がかかる。こういう時間はきっと後で思い返すと豊かな時間なんだろうと思う、今はまだそう思えていなくて、日々のあれこれの中でついつい急かしてしまうこともあるけれど。時間に余裕がある時は子どものしたいようにさせながら歩いている。

*1:地蔵菩薩 - Wikipediaによると、お地蔵さんは道祖神としての役割を担っているとか。地獄絵図とかをみてもお地蔵様は賽の河原地獄におられたりして、ちょっと妖怪っぽい。だから、うちの3歳児はお地蔵さんが好きなのかも。