撤退の交通計画という本を誰か書いてくれないか
あけましておめでとうございます。
さて、新年早々からあまり前向きではない話で恐縮なのだが。
ピーチライナーはキレイな廃墟。「キレイなレールだろ、ウソみたいだろ、死んでるんだぜ。」 / “愛知新交通廃線の教訓/:「道」LRT:企画・連載:栃木:地域:読売新聞(YOMIURI ONLINE)” http://t.co/ThQLtRr3q0
— t (@t80935) April 8, 2014
少し前から、「撤退する交通計画」という本を誰か書いてくれないだろうかと思っている。
世の中、まだまだ「作る」計画ばかりが花盛り。今後人口も減って、高齢者も増えていく。失敗した交通計画にどう幕をひかせるのかが課題になるんじゃないかと思ったりするんだ。
そんなことを話していたら、ある友人に「君が書けばいいじゃないか」と言われてしまった。
確かにその通りで、発案者が実行するのは筋が通っている。
だが、 本を書くには取材がいる。成功ではなく失敗と断じてしまうには簡単な取材では許されないだろう。多様な主体に対してかなり綿密な取材が必要になる。小さな子どもを抱えている身としては、そんなことに時間が取れないというのが実情なんだ。それに持病もあるしさ。
そんなわけで、ここに目次案を置いておくので、これを元にしてどなたか書いてくださらないだろうか?
タイトル「撤退の交通計画(案)」
1.序論
交通計画はなぜ失敗するのか。これからの撤退の交通計画のあり方。
2.「新」しい交通の撤退
ピーチライナーについて
3.コミュニティバスの流行とその衰退
4.住民参加型バスだって失敗する
6.つわものたちの夢の跡 均衡ある発展と道路計画
7.まとめ
日本の交通計画は終わったのか? まだ始まってもいないよ
人の記憶は間違っていることもあるけれど、すごく重要だから積極的に残すべきよねという話
オーラルヒストリーってすごく大事よね
ここ10年ぐらいオーラルヒストリーという言葉をきくことが多くなった。
元々、オーラルヒストリーは、民俗学でよく用いられている手法だったよう。宮本常一の名著「忘れられた日本人」のように、市井の人々の回想をもとに過去の生活を明らかにするというもの。
オーラルヒストリーに「ヒストリー」と名がついているのは、歴史学の人々がこの民俗学の手法を積極的に用い出したから。
現代日本史を専攻していた人によると、歴史学では書物や物的証拠などを元に考察を重ねる学問で、人の記憶や回想とというのはそれほど重視されてこなかったとのこと。
だけど、当然のことながら、書籍に残されていない事実も多くある。当事者が残すまでもないと考えていたとか、あるいは不都合であるためあえて残さなかったとか、そういうの。
ある出来事について、書籍や物的証拠だけでなく人々の記憶や回想も用いるて多角的にみる方が、事実に近づくんじゃないかというのが最近の傾向として出て来たということのよう。
私は歴史学徒ではなくて、土木計画学を専攻としている人間なのだけど、このオーラルヒストリーをまちづくりとかにも積極的に使っていくべきよねと考えている。
まちづくりっていうのは、施設や環境といったものと人々とのコミュニケーションによって行われるものだと思っている。
そのコミュニケーションにおいて、人々の記憶は重要なファクターのはずなんだけれども、ちゃんとした形で残してきていないのはよくないんじゃない?と思う。
第二室戸台風のオーラルヒストリー
昨年度、研究活動の一環で、1961年に起こった第二室戸台風について何十人かに話を聞いていた。
この災害記憶には、いくつかの傾向が見られた。
1.同じ地域でも非被災者は災害そのものの記憶すらあやふや。
私が調べた西淀川区は、第二室戸台風により堤防が決壊し、10日以上にわたって浸水しているという大きな被害にあっていた。
こんなに大きな災害だったのに、浸水区域から数十メートルしか離れていない地域に住んでいた人が西淀川区が浸水したかどうかすらも覚えていなかった。他にも「戦災の記憶が強すぎて、台風のことはそれほど覚えていない」と仰る方もいた。
記憶というのは、ひどく個人的なものなので、その人が感じた切迫感に応じて作られるもののよう。
2.被災者は行政はあんまり何もしてくれなかったと感じている。
行政の記録をみると、行政もいろいろと対策をしているのよね。災害本部をつくって、避難勧告や避難指示を出し、備蓄のチェックをして、と、災害が発生する前からいろんな動きをしている。災害発生後も避難物資を届けたり、排水のためポンプを動かしたり、義援金の分配とかいろいろな活動が記録に残っている。
にも関わらず、ほとんどの人が行政がしていたことは非常に少なく、不足していたと感じているのよね。義援金について「もらった」と言った人が一人もいなかったのも不思議だった(ひょっとしたら一人当たりの金額が少なかったから町内会費とかにいれられたのか? ここらへん事実関係がよくわからなかった)。
行政サービスというのは、普通にされていて当たり前なので、少しでも不足するとすごく不満に感じるということのよう。
正しくない象徴的な記憶が共有されている
複数の人から「第二室戸台風の時には、沓脱先生がボートで往診にまわっていた」という話をきいた。どの人もその話をする時に少し誇らしげに語ってくれた。けれども、沓先生は第二室戸台風が起こった1961年時点では大阪市議会議員で、往診にまわっているはずがない。沓先生がボートで往診にまわっていたのはジェーン台風による被災時で、第二室戸台風の時には西淀病院がチームを作って往診にまわっていた。ジェーン台風に遭遇していない人まで、沓先生の逸話を覚えていた。
「浸水している中で若い女医さんが患者のためにボートに載って往診にまわる」というのは、とても鮮烈な逸話なんだと思う。どこかでその写真や逸話をみたら、強い印象を受けることだろう。その逸話がどの災害で起こったことかというのは些末なことになってしまう。特に、被災者は行政に不満を感じていたため、民間の突出した人の活躍を誇りに思っていたのだろう。
以上の3つの事項は事実としては正しくないことなんけど、複数の人に傾向としてみられたというのは、事実以上の意味があることなんじゃないかと思う。
1つ目の「同じ地域でも非被災者は災害そのものの記憶すらあやふや」ということについて。大きな被害が生じた災害がすぐ側であったにも関わらず、災害についての記憶がほとんどない人がいるというのは思ってもみなかった。災害意識を啓発していく上で重要な当事者意識を持ち続けるということがいかに難しいかがわかる。
2つ目の行政への不信感と3つめの魅力的なヒーローに関する過誤記憶は、相互に関係し合っているもののように思う。災害に関して行政に対策を求めるというのはついつい落としどころにしてしまうところなんだけど、多分、どれだけやっても足りないんだ。そして、民間の魅力的な人の活躍というのは、その活動による直接的な効果よりもその逸話自体が人々の心の支えになるということなんじゃないか。行政の活動も民間の活動も、どちらも災害時には重要なことであるのだから、多くを求めすぎずにきちんと評価していくことが大事だと思うんだけど、人の記憶に残す影響というのはどうも違う。
*沓脱タケ子先生。西淀川区の姫島委員の医師から大阪市議会議員に転身。1973年から参議院議員。
参考資料 今回の調査では本当に図書館や公文書館にお世話になった。アーカイブってすごく重要だね。
・大阪市清掃局:第2室戸台風災害応急清掃作業記録、1961年
・大阪府:第2室戸台風誌、1961年(功労者の表彰一覧などもあって興味深かった)
・毎日新聞、朝日新聞、読売新聞、産経新聞、1961年9月16日〜30日(写真がよく撮れていたのだけれども、マイクロフィルムからコピーを撮るとどれも真っ黒になってしまって残念だった>< 産経新聞が被災者に寄り添った報道をしていて、少し意外であった)
・「大阪の河川を愛する会」講演会 『河川行政を回想する』金盛 弥、2005年(堤防の決壊についてちょっとすごいことが書いてあって驚いた。西淀川区の第二室戸台風の被害は、一民間企業の不作為によるものなのよね。それがきちんと追求されていないというのが何とも)
・学生自治会:「第二室戸台風救援対策活動から」『社会問題研究 11巻4号』大阪社会事業短期大学社会問題研究会、p.83-90、1962年(学生自治会が被災地の西淀川区大和田で仮設保育所をつくっている。すごいぞ)
・淀協のあゆみ 地域の医療運動史、2014年(ジェーン台風時の沓脱医師の活躍や第二室戸台風時のドラム缶ボートでの救護活動についてなどが記録されていた)
子どもが世界を広げる
上の10歳の娘(ぴか)が、12月に朗読劇に出ることになった。
ぴかは、図書館でオーディションのチラシを見つけて応募したのだ。
ここずっと週に1回、劇のお稽古に通っている。
私は演劇というものとは無縁の人生だった。演劇をするという以前に人前に出て何かを話すということが苦手だった。人前で何かをする機会(幼稚園の卒園式で答辞を読むとか、全校生徒の前で自分の作文を暗唱するとか)の際には、必ず自家中毒をおこしているようなメンタルの弱い子どもだったので、演劇をするなんて考えられなかった。
ぴかは人前で話す云々というのを一足飛びに飛び越えて、「劇に出たい」それも大人に交じって劇に出たいという希望を持ってきた時点で、私はちょっと驚いた。こういうことをしたいという子もいるんだなあと。彼女は私から生まれてきて私が育てているはずなのに、志向も嗜好も思考も大きく私と異なる。面白い。子どもは予想と違う方にすすんでいくものよな。
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ぴかは声がとても大きく、よく通る声なので、劇に向いていると思う。
今回、子どもが2人しか応募してこなかったということで、子ども2人が主役級の役をもらえることになった。
ぴかは演出家の目をまっすぐに見ながら、真剣な表情で練習に取り組んでいる。おけいこを始めて1ヶ月半なのだが、メキメキ上手になってきた。
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ぴかの練習に付き添っていると、台詞を言う際のポイントがいくつかわかってきた。
1つは 「間」がとても大事であるということ。最初の頃の読み合わせでは、一人が台詞をいった後、一拍の間があって次の人が台詞とを言うという感じだった。これでは、単に読んでいるようにしか聞こえない。それが、「間」をぎゅっと縮めただけで一気に会話らしさが増すのだ。
2つ目は新しく出てきた単語や言葉ははっきり話す方が、観客に伝わりやすいということ。これは確かにそう。ちょっと意識的にゆっくり話すことで、観客に「この言葉は重要な言葉なんだな」ということを伝えることができる。
他にもいろいろありそう。2つ目のポイントはプレゼンや授業でも使えそう。ライフハック!
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子どもを育てていて、面白いなと思うのは
・子どもを通して昔の自分を再体験することができる
・初めてのワクワクを取り戻すことができる
あたりだと思っていたんだけど、ぴかが大きくなって
・子どもが新しい世界に飛び込む。世界を広げる
という要素も出てきた。
子どもを育てるってほんまおもろい。
桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿
いつのまにか桜の季節になっている。
桜を見ると、以前の大家さんが言っていた「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」という言葉を思い出す。
以前住んでいた京都北山の茶室住宅の庭には桜の樹があった。立派な太い幹の樹で、毛虫はつくかもしれないが、花見ができるのであれば毛虫は大して厭わしいことでもないだろうと思った。庭には待合用の腰掛けもあって、花見には最適な環境に思われた。
だが、しばらくして、突然、その桜の樹は根元近くから伐採されてしまった。その頃、家の庭にはいつも大工さんが出入りしてて屋根をいじっていた。雨漏りを修理してくれているのかと思ったら屋根にソーラーパネルをつけていたのだ。おそらく、桜の樹は坂の上にあり、屋根に影を作っていたので煩わしかったのだろう。残念に思ったが、私たちはただの店子であるので仕方がないなあと思っていた。
夏のある日、庭を見ると大家さんがいた。大家さんは仙人のような風貌の方で、髪は腰まで届くような白髪、白い顎鬚も長く伸びていて、いつでも和服、下駄という服装の方だった。私は大家さんにあいさつしたが、大家さんはこちらの顔も見ずに、桜の切り株をみて「昔から桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿というのに、誰が桜を切ってしまったのだろう」とつぶやいていた。あなたが大工さんに切るよう依頼したのだろうに、何を言っているのだろう。私が呆気にとられていると、気が済んだのか大家さんは私たちの家を出ていった。
京都の北山の家には2年弱住んでいたのだが、私達が出ていった後、大家さんは息子さんに家業を引き渡したと聞いた。大家さんは、少し忘れっぽくもなっていたのかもしれない。
わが家では桜の季節になるたびに、この「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」というどうでもよい話で盛り上がる。桜を切る馬鹿は実は自分だったのだよという話である。
好きかどうかぐらいは自分で決めさせてほしい
ふと思い立ってはてなブログに引っ越してきました。以後お見知りおきを。
以前のブログはこちら → 1, 2, 3, 4, 5, 6
ここ1ヶ月ぐらい社会心理学を少し勉強している。心理学については、まったくの門外漢なので、有斐閣の教科書をもとにして毎日少しずつ。
勉強っていうのは逃避の面もある。勉強すると落ち着くんだ。勉強した内容を肥やしにして、新しいこと考えないといけないんだけど、新しいことを考えるにはエネルギーがかなり必要だ。新しいことは間違ってる可能性が高く、試行錯誤であったり、論理的な思考を必要とされる。もう既に評価が定まり、体系的にまとめられてきたものは間違ってる可能性は低く、学ぶだけであったらそれほどエネルギーがいらない。端的にいうと、勉強は楽しい。嫌いじゃない。
1ヶ月経って、やっと7割ぐらい理解できてきた。社会心理学はめちゃめちゃ面白い。浅学の身ながら、日常生活のあれこれや社会事象を心理学の知見を用いて説明したいという欲求にかられる。それは浅はかでちょっと危険なことだけど。
対人関係について書かれている頁には、夫婦間の葛藤について書かれてあった。
夫婦間で葛藤が起こりやすい心理特性としては、まず相手に対する「理想化」理想が高すぎると、現実との違いによる落胆が大きくなる(といって「理想」が悪いわけでもなく、相手に理想をもち続けるカップルの方が難局に当たってはポジティブな態度にあたることができるという調査結果もあるらしい)。
また、愛着のスタイルも葛藤の回避に影響を与える。 自己評価が低い人は、問題に直面した際に、愛情やコミットメントの低下を招きやすい。
さらに、相手のいやな行動を相手のいやな行動を、性格や不注意などの内的な原因に帰属しやすいと幸福感が低下する。 一方、外的な環境要因に帰属しやすいカップルでは、相手に対する信頼度が高く幸福感も強い。
ここから個人的な話になるのだが、私は結婚してから12年になる。暦が一巡してしまった。12年とは、二人の人間が一緒にいる年月としては、そこそこ長い年月だと思う。この12年の間に夫婦間の葛藤というのは嫌というほど体験してきた。
夫は技術者で、一年の半分ぐらいは非常に忙しい。平日は終電でしか帰ってこないし、週末も家にいないことが多い。私はポスドクという不安定な専門職で、仕事量を減らそうと思ったらいくらでも減らせてしまう。でも、今後のキャリアや自分の興味のことを考えると、どんどん忙しくしていかなければならないという焦りもある。さらにうちには、2人の子どもがいたりするし、私には持病もあったりするのだから、こんな夫婦生活に葛藤がないほうがおかしいと思う。
1つ1つの葛藤は、ごくごくつまらないものだ。育児や家事にまつわるあれこれ、コミュニケーション不足、連絡不足、失敗や失念など、小さな小さな出来事の数々。その葛藤の原因を夫の愛情不足や人間としての瑕疵にあるのではないかと思ってしまうと、黒いいらだちが増大する。夫の状況を慮るという大人としての基本的な考えをまずもっておけば、それほどいらだたない。だが、それが続くと、この葛藤は自分が人間として決定的に何かが欠けているせいではないかという責めにつながったりもする。バランスが難しい。
解決方法は、相手の失敗を許す、互いのコミットメントを強くもつこと。社会心理学の教科書にもそんなしか書いていない。結局のところは、試行錯誤していくしかないのだ。
ああ、さてさて。さらに個人的なことを書こう。
夫は時々、私に向かって「君は僕のことが好きなんだね」と言うときがある。
私に普通の余裕があるときであれば、「うん、まあ、そうだね」と返事ができるのだけれども、何か心に鬱屈があると「いや、まて、好きかどうかぐらいは私自身に決めさせてくれ」と思う。別に夫のことが嫌いなわけではないだが、感情まで他人に決めつけられるのは勘弁してほしいと思ってしまう。
夫は、自分のことが大好きで、他人が自分のことを嫌いだなんてあんまり想像したことがないように思う。私は夫のそういう面を好ましいと思い結婚したはずなのだが、長年一緒にいると、こういうよいと思っていた側面でさえもちょっとどうかと思ってしまうのだから、対の関係というのは面倒くさい。
結婚生活ってほんまに面倒くさいものだ。でも、人生から面倒なものを取り除いたらスカスカになるに違いない。仕方ない。面倒くさいを受け入れよう。
そんなこんなで、共白髪になるまで穏やかに過ごせるよう、夫へのコミットメントを日々欠かさないようにしようと思うのでした。